カテゴリ:子供の頃( 3 )

地理の思い出

KSであっても、子供の頃から現在に至るまで、一つの教科の成績が良かったことが、どれだけ人生にとっての支えになったかのお話です。

さて、地理、特に地名のお話です。

小学3、4年生になると教科書に地図帳が出てきます。
この地図帳を休み時間に友達何人かで、その日のテーマを決めて、山の名前、川の名前、都市名、三角州の名前などなど、そういったものを地図帳から探すってことをやってました。何が楽しかったのか、よく思い出せませんが、ともかくそういうことを休み時間に友達とやっていたので、どこに何があるかは、頭のなかに入っていました。

そして小学6年生の時です。
クラブ活動とは別に週に1回だけの4年以上の縦割りでのクラブ活動という時間が授業のなかにありました。

この時の私の第一希望は音楽(合唱)で、第二希望が地理だったのです。
この合唱は別なところでも書きますが、簡単に言うと、女の子だけのクラブだったのです。そしてその女の子だけのクラブに果敢に入りたかった私だったのです。

でも、ダメ、と言われました。
女の子だけのクラブに男が一人では入らない方がいい、という先生らの判断でした。男一人は嫌だろう、ということでしたが、私には全くその考えが理解できませんでした。

さて、そうして入った地理のクラブでしたが、1年間に何か作ろうということで、A4サイズに地図帳から岩手県の地図を正確に書き写したものを、縦3m横5mぐらいのベニヤ板に拡大して、ペンキで岩手県の地図を作ることになったのでした。これは面白かったでした。そしてこの時の経験が、のちにいろんな形で生かされていくのですが、これはまた思い出したら書こうと思います。そして、その完成した岩手県の地図が、今でも出身校に飾ってあるのです。
ちなみに、先の東日本大震災で、出身校のうち、中学校と高校が津波で破壊されて閉校になっています。小学校はギリギリなんとか難を逃れた感じです。

その後、中学生になって、アマチュア無線と出会います。
アマチュア無線で全国の方、全世界の方とおしゃべりができるのですが、これで、国内にある全市全郡全区の名前をほぼ覚えてしまいます。当時で全部で1200はあったと思います。今は統合されてしまって少なくなってしまっていますが。また運良く、海外と交信できた時は、今度は世界地図(これはしっかりとした世界地図の本を持ってました)に交信した都市をプロットしていきました。これも楽しかったでした。

今は残念ながら地図帳の字が細かすぎて読めませんので、そういう楽しい作業はできません。楽しかったのに。

大学受験の時には英語、数学、地理で経済学部を受験しています。
こんな3教科で文系の大学って珍しくて、私と同じ理由で岐阜から受験した人もいたほどでした。
ここでの地理の問題は論文でした。
何がテーマだったかはもう覚えていませんでしたが、父が漁業関係だったので、沿岸漁業について書いた覚えがあります。
余談ですが、この時、英語は最低ラインの20点、地理と数学でそれぞれ80点を取って、それで合格したことをあとで聞きました。

大学は経済学部商学科だったので、商業地理という科目がありました。商業的な目線での立地などですね。
例えば、病院の側に花屋が多いとかいうやつです。これはそういう目線でそれまで考えたことがありませんでしたから、授業は楽しかったでした。



さて、この地理がその後の人生にどう影響していったか。
これも数学に似ています。地理そのものがどうか、ということではなく気象の方面で影響していくのですが、これはまた別の機会にしたいです。

簡単に言うと、私は降水確率90%を誇る雨男でしたが、単なる雨男でいるのが嫌なので、大人になってから気象を勉強しました。高校生の時の地学の気象のところでは散々な点数でしたけれど、雨男を挽回しようと思って勉強した気象は楽しかったでした。
もう少し、若ければ、気象予報士の資格も取れたことでしょうが、アマチュアの世界に甘んじております。

これは、先の数学から災害時の情報発信に繋がっても行きますね。




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by KSofNaka | 2018-08-03 23:02 | 子供の頃 | Comments(0)

算数(数学)の思い出(追記)

KSであっても、子供の頃から現在に至るまで、一つの教科の成績が良かったことが、どれだけ人生にとっての支えになったかのお話です。

 年子の兄がいてとても優秀だったんだけれど、まぁ、果たして小学1年生から頭角を表していたかどうかはわからないが、かなり影響をうけていたとは思う。
小学1年生の時に中学1年生の同じ名前の先輩から、今日習ってきた答えがマイナスになる問題を出されて、あっという間に答えて先輩を驚かせたことがあった。なんとなく答えたのが当たってたぐらいの感じだった。

 小学2年生に九九を習う。この時担任だった6年間で唯一の男の先生は、100問の九九を5分で解かせる、ということを授業の最初にやっていて、私は2回めで全問クリアしたんだけれど、あまりに早すぎる、ということでそれは無しになってしまった。そして3回めは1問間違えて、女の子が全問正解で1番目になったのが悔しかった。そして4回目に全問正解して2番目になったという屈辱を味わった。

 その後の小学生時代はあまり記憶がないけれど、中学2年生の時に頭角を表すことになる。いい先生に当たった。それがどんどん面白くて、高校生になって、1年生2年生の担任が私と同じ誕生日だったということもあって、すごくのめり込んでいき、いつのまにか数学だけは天才的と呼ばれるようになっていた。
ただ、試験前に勉強をして平均点以下という屈辱を味わってから、どんどん勉強しなくなっていった。授業と授業の間の休み時間で予習、授業中も先行していて、それだけで十分だった。却って勉強すると迷いの元になってしまって、勘を働かせた方ができることをなんとなく知ってしまってからは、ますます勉強はしなかった。

 高校3年生の時には数Ⅲはやらずに数ⅡBを専攻。大学受験では、数Ⅰ、数ⅡA・B、数Ⅲのどれを選択してもよかったので、得意の数ⅡBを選択して合格した(他には英語と地理)。
大学生での数学の思い出は何もないが、受けてみたかった統計学を受講。今では考えられないけれど、高校の担任にお願いして、あるクラスの成績表を入手、数学ができる人は理科も得意、という仮説を見事証明して見せた。

 就職試験の時は、数学の証明問題が3問出で、1問はわからなかったので、2問を確実に解いて合格。上京した。

 そうそう、高校の担任だった数学の先生からは、計算のコツをひそかに教えてもらっていて、それが今でもとても役にたつ。特に検算の時に素早くできるので、重宝した。後日、そのことを報告した時に「おー実戦で役立っているのか。嬉しい話だ」と言われたっけ。
コツのひとつは乗算(同じ数の二乗の計算の仕方。特に2桁の乗算の仕方)と、平均点の簡単な求め方だ。いずれも紙に書かなくてもそらで計算できるのがありがたい。

 その後、仕事柄、16進数での計算を覚えると、その計算速度が向上していった。

もっとも、今は、かなりの部分について難しくはなっているけれど。


ここから追記)


 仕事をするようになってから、何に数学を利用したかを思い出したので追記します。


1つは、検算を別な計算方法で求める、というものですね。

前述にある、乗算と連立方程式を駆使して検算はなるべく暗算でやるように心がけました。だから、他の人が1回の計算に要する時間で検算までやったのです。また、完全に検算にならなくても、例えば1の位だけ検算するとかですね。検算に完璧を求めなかったことも計算の早い確認につながってました。


もう1つは、やはり別な方法で確認するところは同じですが、別な方法で証明するというところですね。

これは、検証、つまりはプログラミングのテストで役立ちました。ひとつの方法で検証しただけでは正確ではないので、別な方法でも検証するということでした。もちろんテストをするための仕様書作りも重要ですけれど、ここで証明がとても役立ったということですね。就職試験の時も2通りで証明して回答したあたりの取り組み方がのちに役立っているということでしょうか。


こんな私なので、今でも検証にはうるさくなってしまったところは、職業病ということでご勘弁ください。


さて、検証からさらに進んで、データのでどころ、という話にも繋がるのですが、例えば、台風が接近してとか地震のあとの津波とか、災害が発生するといきなり元気になって情報発信している私ですが、あまり気象庁の見解を重要視せず、どちらかというと、センサーの生データを使って情報発信するようにしています。

(これは仕事で生データを受信する収集系のシステム開発に携わっていたことが大きく関係しています)


例えば周辺の気圧の状況から台風が今どこにいるかを出したり、気象庁がさっさと津波注意報を解除したのに、検潮所のデータからまだ津波が来襲していることの情報を発信したり、河川の反乱も河川センサーの生データを発信するということですね。

今考えると、こういうところは一見、数学とは関係がないように見えるかもしれませんが、数学と共通するところはあると思っているのですね。



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by KSofNaka | 2018-08-01 20:37 | 子供の頃 | Comments(0)

小学生の思い出 〜委員編〜

KSの私が子供の頃、どんなだったかを書き残したいと思ったので。

・3年生の時、貯金部に入る。

 当時、全校生徒は毎月、いくらかかのお金を郵便局に貯金していて、その窓口が小学校の廊下に面した小部屋にあった。今から考えると、とても奇抜だし、今なら絶対にやらないことのひとつだと思う。
そして、当時の部は4年生以上だったのに、3年生で私は特別にさせてもらったという記憶がある。なぜ、そうなったか。多分、父親が会社の会計担当だったことと、母親も金融関係の窓口業務でお金を扱っていたからだと思う。
 貯金部での私の仕事は、小窓から一人一人貯金通帳と現金を受け取り、貯金通帳の受け取り印を押す役目だったように記憶している。長四角の印を押したのを覚えている。他の人は、受け取ったお金を数えたり、金庫にしまったりしていたと思う。
当時も裕福なうちのような家庭とそうでない家庭があって、金額に大小があったと思うが、両親から無意識に教え込まれていたんだと思うが、そういうお金は自分のお金とは関係ないものだから、色眼鏡を使わないようになっていたんだと思う。
そして、私は社会人になってもそういう役目を引き受けることが多く、冠婚葬祭のお手伝いで、そういう役をよく頼まれた。

・4年生と5年生では交通部だった。

 交通部は、生徒の通学時の安全と自転車の免許試験のサポートだったと思う。
当時、私がいた小学校には自転車に乗れるのは小学4年生以上で、しかも学校で年に何回か行われる試験(記述式、実技)に合格しないとダメだった。そして、私はそういう免許の仕組みは全国にあるものと社会人になるまで信じていたが、そうではなかったようだ。まったくこんな良い仕組みは全国にあるべきと思うのだが。
 通学時の安全については、交通安全週間の時のポスターを生徒から募集したりそれを学校内に展示したり、それから安全運転の手紙を信号で止まった車のドライバーに手渡す、っていうのもあった。
 私が住んでいる町には信号機がたったの1個設置されていた。これは世の中に出た時に信号の使い方を知っているようにという配慮で設置されていたけれど、それは今でも変わらず、押しボタン式の信号機だった。

 そうそうそれで思い出したことがある。小学5年生の時に、兄と一緒に自宅から学校までを8ミリフィルム撮影されたことがあった。何度も何度も撮り直しをして。私の家は、学校まで徒歩5分内で、その町内唯一の信号機を使うから丁度いい距離だし、この兄弟は仲がいいと評判だし、ということで白羽の矢がたったと思われるが、兄は私をずっといじめていたらしいことが大人になってからわかった。罪なことである。

・6年生の時、生活部に入る。

 当時は、確か4年生以上の生徒で構成されていたと思う。生活部の仕事は、各組の生活部員を毎週朝に集めて、学校が決めたことを生徒に伝えることや、各組の状況を集計することだった。
 最初の生活部の会合の時だった。部長を決める時に、私も候補として推薦されていて、いざ投票の段になった時、当時の担当の男先生から「なかちゃんは、1年上の優秀で有名な兄の弟だよ」と言われた。結果、全票が私に集まって当選してしまったけれど、当然私にとっては不本意だったし、そういう先生を生涯にわたり軽蔑することになった。当然と言えば当然の報いだ。
 そして、そうしてなった生活部長の私は、毎週朝に各組の生活部員を一箇所に集めることを、自分の任期中に1度も実施しなかった。毎週朝に、各組を回って各組の生活部員に廊下で説明して情報を収集したんだった。これは当然、せめてもの反抗だったのは言うまでもありません。
大変だったけれど、なぜかそうやったんだった。やるときゃやるのよね、私。



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by KSofNaka | 2018-07-29 22:49 | 子供の頃 | Comments(0)

クラインフェルター症候群(KS:47XXY)の人生を赤裸々に、集大成のつもりで綴ります。化学物質過敏症(CS)もね。


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