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できなくなっていったものたち(追記)

1。自転車

 小学3年生の頃に自転車を買ってもらい、学校の校庭で父親に教えてもらいながら覚えたのが最初。
この自転車で出かけられる範囲が一気に広がったのは言うまでもない。
私が出た小学校には小学4年生の時にバイクの免許と似たような試験制度があり、それに合格して免許証を持っていないと公道を乗れなかったんだった。
 学科があったかどうかまでは覚えていないんだけれども、校庭に白線を引いてコースを作り、実地試験があったことは覚えている。

 そして中学。その行動範囲は一気に広がり隣町まででかけるようになった。もちろん一人ではなく、いつもの友達となんだけれど。

 そして高校。高校にはバスでも行けた。20分ぐらいかな、だいたい7kmほどの道のりだったが、半分ぐらいは自転車通学した。

 大学に入っても、下宿が遠かったので数kmを通学で使った。行きは全部下りで帰りは全部登りだった。友達の家に遊びに行く時も自転車だった。仙台は、中心街が低いところにあって、住宅地が高いところに多かったので、結構大変だった。

 社会人になっても自転車にはよく乗った。会社の寮を出て国立に引っ越しをした後で、立川の駅前にあった自転車屋さんでサイクリングタイプの自転車を購入。この頃にはずいぶんと遠くまで出かけたものだった。西は大垂水峠を越えて山梨までと奥多摩まで、東は狛江あたりまで、南は二子玉川まで、北は秩父の入り口付近まで。無理をしすぎて脱水症状を起こしてしまったこともあったっけ。

 それが、いつの頃からだろうか、乗れなくなったのは。

 こいでいると右の足の付け根付近の関節が動かなくなってしまいこげなくなってしまった。それからはもうずーっと乗れない。もう何年になるかなー。
結婚してから15年ぐらいは乗れてなかったんじゃないかなぁ。

 それが4年前のこと。
 新しい職場への面接で、最後に質問されたのが「自転車に乗れますか?」というもの。
もうね、ハッタリでした。「乗れます」と答えないと、採用してもらえないと思いましたから。
で、その後で、乗ってみたら乗れたんです。

2。卓球

 小学生のときは卓球クラブに入っていた。なんか暗い、というイメージしか残っていない。

 中学に入っても卓球クラブだった。私がいた中学校は県内でも強かったので必ず県大会で入賞していたんだった。だから先輩もOBもうるさくって厳しくって、殴られることもしばしばだし、学校の先生よりも怖かった。そして私たちの学年でこの強さに終止符が打たれた。ことごとく負けて、シード権を失くしていった。

 で高校では卓球はやっていないんだなー。吹奏楽部だったから。

 大学にいってもやっていない。

 そしてその反動が社会人になってから出て、会社の中で卓球同好会を作って週末に練習しその後の飲み会が楽しかった。でも、それも2、3年の後、その多くのメンバーがテニスに移って行ってしまって、卓球もやらなくなってしまった。私には体力的にテニスは難しかったから。

 それでもまだ卓球が諦められなくって、国立市内でやっている卓球の同好会に入れさせてもらおうと思ったんだけれど、結局、練習には行ったものの、長くは続かなかった。
今思い出したけれど、その後、会社の人達と国立で何回か卓球をやったことを思い出した。楽しかった。

 そして、それから10年以上経過した時、やはり立川での卓球クラブに誘われて、一度だけ練習に行ったことがあったっけ。

 そして、そこで言われたんだなぁ。

 この人とは練習になりません、って。

 キツかったなぁ、あの一言は。手の震えがあって、ラケットにボールが当たらなかった。フォアーハンドは全くダメだった。そのかわり、バックハンドは問題なかったんだけれど、バックハンドだけでは卓球できないからな。

 そういうことがあって、もう卓球への興味はなくなった。ラケットもあるしピンポン玉も持っているんだけどね。


3。ハーモニカ

 父親が好きだったのと、小学1年生のときからハーモニカが上手で、1曲吹けるごとにリボンが胸についていくんだけれど、日に日にそれが増えて行ったっけ。そして立て笛もできた。

 私が小学六年生の時、その小学校が創立百周年の年で、その記念行事の中で当日、父と一緒にハーモニカ演奏をすることになっていた。一生懸命に練習した。曲は覚えているけど曲名は思い出せない。古い歌だった。でも、当日になって父親がびびったのかな、辞退したのよね。
もし、あそこでそのまま辞退せずにやっていたら、その後どうだっただろうって思うよ。

 でも、ハーモニカはその後も好きで、自分で買って吹いていたこともあったんだけれど、1台で伴奏と主旋律を吹くやり方がどうしてもできなかった。

 そして、それはハーモニカが得意という部類とは違うことに気がついた。そこでやらなくなった。


4。剣道

 小学生の頃、スポーツ少年団、という言葉が表れ、各地でスポーツが盛んになった時期がある。私は未熟児で身体が弱かったから親が、そういうもので鍛えようとしたのだろうか。
その当時の小学校の校長先生が剣道を教えてくれた。零戦のパイロットだったらしかったその校長先生、背が低くって精悍な人だった。そこで小学5年生の1年間、朝4時起きで徒歩1、2分の小学校で剣道を習った。
 あーいう「道」は好きだった。

 それが忘れられず、大学の体育で剣道を選択したが、筋力不足で一時は外されたものの、半年間剣道をやることができた。

 そして社会人になって、私のKSを見つけてくれた先生がやっていた空手の道に入ることになった。でも、すぐに急性肝炎で入院。「道」は好きだったけれど、ここで断たれてしまった。
筋肉がつかないし、体力的にも無理なのだった。


5。スキー

 東北だけれども三陸沿岸だったから冬でも雪は少ない。
 だからスキーをやるとなると内陸にでかけるしかなかった。

 大学の体育でスキーを半年やった。冬休みに2泊3日で山形蔵王に出かけての実習以外は、教室でスキーの歴史について勉強したというもの。
そして、仙台の周辺にはスキー場があった。下宿の大家さんは夫婦で山登りをする方々だったので、スキーもやっていたし、スキー板はそこで貸してもらって、友達らと授業をさぼって滑りに行ったこともあった。

 そして、卒業間近の頃だったか、ゼミの仲間で山形蔵王に出かけてスキーを楽しんだのだけれど、はっきりいって、苦痛だった。まずは滑れない。上手ではないってこと。それなのに上級コースに連れてかされて、たった2、300mの上級コースを降りるのに何時間もかかって、中級の樹氷コースはきれいだったけれど、死ぬ思いで下まで降りてきたっけ。
足がつってしまって、滑れなかった。パラレルができるはずもなく、そうして私のスキーは終わった。

6。体を動かすボランティア

 災害などでの泥かきや後片付けなどのボランティア活動ができなくなった。
っていうか、そもそもできないんだな。

 以前、災害救助犬での無線通信を教えるボランティアをやっていた時も「私は現地にはいかないから」と宣言して教えていました。みんなからは信じられない、と言った目でみられていましたが、私が現地に出かけたら、みんな私を頼りにし過ぎて、きっと教えたことが活かされないと思ったのが1つの理由でしたけれど、もう1つは、体力がないことでした。

 心臓肥大、僧帽弁の閉鎖不全という持病を抱えていて、心拍数も40〜60という低い値で、運動はそもそも無理しちゃダメだよ、と言われていたけれど、今では、それが当たり前になってしまっているから、あえて活動の際に言うこともなくきている。

 そんな中でもある年、無職状態で体力をボランティアに使った年があった。でも3回目の時に現地で深夜、救急車のお世話になった。搬送先の病院では、きっと寝違えただけだと思うと診断されたけど、そんなことでと思ってしまった。その後、一緒に行ったある方から「本当は体調が悪いのに隠して出かけたんでないの?」と言われた。答えられなかった。そもそもいつも体調が良い時なんてないもの。
それ以来、その言葉が影のように付きまとい、どうしても遠出や宿泊があるイベント、体力を使うイベントには参加できなくなった。

 当時、活動の中心的な役割を長年やってきていたけれど、現地に出かけて、という要望にはどうしても応じられなくて、でも出かけないとね、ということの葛藤があって、結果的にそういうことが精神的な負担を招いて、結局は活動をやめることに繋がった。

 もうね、ボランティアはされる方の人間なんだよ。そう腹をくくった。
 今まで、本当によくやってきたと思う。



ま、そんなところ。。。

ほかにもあるんだろうな、また、思い出したら追記します。


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Commented by るい at 2020-09-02 07:56 x
お早うございます。
 なかちゃんさんは文化系のイメージがあったので、卓球や剣道をしていたり、スキーをしたことがあると知って新たな一面を観た思いです。

でもまあ どれも生きて行くのに必要なワケではないので、そう言う経験もしたと言うことが引き出しの1つ1つになるようにも思います^ ^

 この先のなかちゃんさんに幸あれ❗️
Commented by KSofNaka at 2020-09-02 20:21
るいさん こんにちは。

これはできなくなったものたちなので、これ以外にも町内一周の走り込みとか中学の頃はさせられていましたね。
町内と言っても、都会の町内ではなく、田舎の町内なので、東京都でいうと、東京都の約1/3くらいとか、結構な広範囲でした。
また上京してからは、帰宅困難者訓練で20Kmほど歩いたり。今はもうやりませんが、できなくなったわけではないのですよね。
by KSofNaka | 2020-01-01 20:45 | 症状 | Comments(2)

クラインフェルター症候群(KS:47XXY)の人生を赤裸々に、集大成のつもりで綴ります。化学物質過敏症(CS)もね。@ks10cs2naka


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